movies vol.3    



              阿弥陀堂だより

             
2002年・日本作品 128分  監督・脚本:小泉尭史
              出演:寺尾聰、樋口加南子、北林谷栄、田村高廣、香川京子、井川比佐志、
                  吉岡秀隆、小西真奈美、他
             

              

           


 ものがたり

 春。奥信濃の無医村、谷中村。その村出身の売れない作家、孝夫は妻の美智子とともに東京から移り住む。美智子が週3回、保育園の一室で診療を始めるというので、村の人たちは大歓迎だ。けれども、夫婦の田舎暮らしには、美智子の心の病を癒す目的があった。大学病院で、優秀な医師として活躍していた美智子。患者の死に何度も接する中で、ハードワークから自らは流産。その精神的ショックから、ある日雑踏の中でパニック症候群を引き起こしたのだ。一方、孝夫は10年前に新人賞を取って期待されながらも、まともに本も出ない。村では専業主夫に徹し、妻をサポートしながら、村の広報誌を配ったり、農作業を手伝ったりしている。胃がんに侵された高校時代の恩師、幸田を見舞う孝夫と美智子。しかし幸田は、一切の治療を拒んでいる。
 老人中心の谷中村でひときわ異彩を放っているのが、亡くなった村人を祀る阿弥陀堂を守る老婆、おうめさん。96歳にして自給自足。ひたすら山中のお堂で祈りの生活を続けている。なにものにもとらわれないおうめさんの、ユーモアをたたえながら含蓄ある言葉を、村の助役の娘、小百合が書きとめ、村の広報誌に『阿弥陀堂だより』として連載していた。喉の腫瘍が原因で話すことができない小百合。筆談と美しい微笑みだけで、おうめさんと心を通い合わせている。
 季節を追うごとに移り変わる村の風景、素朴な村の人々。あどけない子どもたち。村の自然、村人との触れあいの中で、いつしか、美智子は心を取り戻していく。
 そんなとき、小百合に腫瘍の転移がみられた。小百合のために、町の病院で再び医師としてのハードワークに挑む美智子。「大切なものは、やっぱり阿弥陀さんだなあ」と言いつつ、小百合の回復を一心に祈るおうめさん。そして、幸田にも死期が近づいていた・・・。
 都会の現実に押しつぶされ、心を病んだ主人公の喪失と再生の物語。美しい映像と脚本、役者が三拍子揃った秀作だ。「心が洗われる」というのは、こういう作品のことをいうのだろうか。


 お墓のシーン

 村の生活は、あの世とこの世を絶えず行き来する。映画の中でその典型として描かれていたのが、お盆だった。しかし、お盆のことをあらためて聞かれて、私も含めどれだけの人がちゃんと答えられるだろうか。(知らない方はこちらでお勉強)。谷中村には、山のふもとに墓地がある。といっても、今流行りの「○○霊園」というような立派なものではない。田んぼと山の境にある斜面に昔ながらの墓石が点在しているだけだ。家々では、仏壇をきれいに掃除し、灯篭を飾る準備が始まっていた。映画では主人公夫婦は、昔、祖母が住んでいた屋敷に住んでいるのだが、そこにも床の間の隣にちゃんと仏壇があり、ふたりで掃除をする場面がある。美智子がいう。「新しい仏壇、買おうか」。孝夫は「けっこう高いぜ」。「いいわよ、それぐらい。ご先祖さまがいらっしゃったから、あなたが生まれて、私も生まれた。私たちもご先祖さまになってみない?」。
 夕闇が迫る頃、村人が花や線香を手に続々とお墓に上っていく。年に一度、あの世から降りてくるご先祖さまを迎えるためだ。子どもたちも親についてやってきていた。そして夜。ろうそくが灯された墓石が、ほのぐらい闇の中に浮かんでいる。静かでいいシーンだった。8月15日は終戦記念日とも重なっているけれど、いまや都会では、それすら意識が薄れ、お盆=ただの休日。こういうシーンを見ると、つくづく、日本人は便利な生活と引き換えに、大事なことをどこかに置き忘れてきたんだなあと感じる。
 川では小さな灯篭が次々と流される。しょうろう流しという奴だ。川の流れに沿って、また彼岸に帰っていく死者の魂。そして大きな花火が夜空にどーんと打ち上げられ、川面を鮮やかに照らす。夏の終わりを告げる象徴的シーンだ。


レビュー

 南木佳士の同名小説を映画化。1995年に発表され、すでに文庫本化されている作品だけれど、私はこの作家のものには今まで縁がなかった。前もって読んでおこうかと思いつつ、Amazon.comでは「お取り寄せ」扱いだし、近くの本屋では文庫本はもっぱら有名作家に絞られ、ますます探しあてにくい。映画のパンフレットには、『「阿弥陀堂だより」を書いたころ」という原作者のエッセイが載っており、かろうじて原作者に触れることができた。南木さんは自身が医師でもある。そして、ご本人がパニック障害とうつ病に悩まされていた経験がベースになって、小説『阿弥陀堂だより』が書かれているそうだ。実際、生まれ育った群馬の山奥には阿弥陀堂があり、そのすぐ下の墓地には、彼が三歳の時に亡くなった母親や、育ての親の祖母のお墓があるという。映画の世界はまさしく、彼の原風景でもあるのだ。書くことは自分自身を癒す方法であり、医師として立ち会った多くの死者への供養でもあったのである。“癒し”や“癒される”といった言葉はもはや手垢にまみれているけれど、彼にとっては供養こそが内なる自然治癒力そのものだったのだろう。だから、樋口加南子演じる美智子も寺尾聰の孝夫も、いわば作家自身の化身。エリート医師の妻と売れない作家という、一見不釣合いに見えるカップルが、決して相反せず、互いに労わりあい、掛け値なしに信頼し合った夫婦というのも、うなづける話なのだ。

 それにしても、この映画に圧倒的な力を与えているのは、やはりおうめさんを演じた北林民栄だろう。若い頃から老け役に徹してきた彼女も、実年齢91歳を超える96歳の役が回ってくるとは思わなかったのではないだろうか。実際、三方をふすまに囲まれた板張り、という阿弥陀堂で老婆が1人、どうして冬を越せるのだろう、という素朴な疑問もないではないが(実在するものではなく、セットだという)、そんなことはどうでもいいと思えるほど、魅力的なおばあさんの、ある意味豊かな生活だった。『阿弥陀堂だより』の一節を、ナレーターとしても一級の寺尾聰が(私は森本レオも渡辺篤も嫌いだけど、寺尾聰だけは凄いと思う。TV番組『世界遺産』も、緒方直人からこの人に代わってやっと落ち着いて観られるようになった)、劇中にぽつぽつと語るのだが、これがまたいいのだ。

雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。
山の奥にある御先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、
どちらがどちらかだか分からなくなるのが冬です。
 春、夏、秋、冬。はっきりとしていた山と里の境が少しずつ消えてゆき、
一年がめぐります。人の人生と同じなのだとこの歳にしてしみじみ感じます。
             
                                 
                                              (『阿弥陀堂だより』パンフレットより)

 人生はしばしば、四季にたとえられる。冬には死のイメージ。過酷な冬の後に芽吹く春は、まさに再生のシンボルだ。映画では主人公の身のうちに春をもたらせて、穏やかに幕を下ろす。

 阿弥陀堂には、亡くなった村人の名を書いた木札が壁にかかっている。映画も後半、深まる秋の中で静かに夫の死を看取った幸田夫人が、阿弥陀堂を訪ねて亡き夫の木札をかけるシーンがある。生前幸田は妻に「葬式なんぞ、せんでくれよ。線香一本立ててくれればそれでいい」と告げる。葬儀という大変な作業を妻に負わせるのは可哀想だという夫の思いやりでもあり、どこまでも自分の死生観をまっとうしたいという男のエゴでもある。華美にしなくとも、残された人が喪に服す通過儀礼として、葬儀は必要ではないだろうか。阿弥陀堂で静かに死別の悲しみに耐える幸田夫人に、おうめさんは何も言わず、ただ手を握り合う。気丈にふるまっていた夫人も、おうめさんお無言のなぐさめに氷解し、涙をはらはらと流すのだ。台詞もない。カメラはそんな二人を遠くから慎み深く映す。だからこそ、一層、悲しみを誘う。 

 その他、珠玉の台詞がそこここに散りばめられていたこの映画。主人公を演じた樋口加南子は、美しいたたずまいとともに、医師としての知性と人間としてのまっとうな弱さを、自然に醸し出していた。私は最初は夫と、数日後には娘を連れて観に行った。ひょっとして、6歳の観客は日本でも最年少かも(笑)。でも、娘いわく「楽しくて、面白くて、悲しい話やったなあ」とは言いえて妙。二度目の時、20歳前後の女の子の一団が観終わって「むっちゃ、感動〜」と叫んでいた。やはり、いい話は、歳に関係ないと思う。寒々しい現実ばかりが続くこの社会、決して教育的なおしつけではなく、日本の原風景と人の“情”は、子どもたちにもぜひ伝えておきたい。

 
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